天使のようなインナーチャイルド②
先日書いた、インナーチャイルドが今日はじめて喋りました。
お風呂に入りながら、ふとチャイルドに思いを馳せた時、突然、
「悲しかったね」と話しかけてきたのです。
「あぁ、、、そうだね。悲しかったね。」驚きながらも、そう答えた瞬間、
目の前に、子供の頃住んでいた家のリビングが広がりました。
誰もいません。ただ、ガランとした空虚な感じが辺り一面広がっていました。
私の実家は商売をやっていて、いつも家の中はガランとしてうすら寒くて、複雑な家庭環境もあって争いが絶えませんでした。
誰かの怒鳴り声がいつも響いているような家でした。
そんな風景と空気感が、チャイルドの一言で、蘇ってきました。
「あ~そうだね。悲しかったんだよね」
もう一度、しみじみそう思いました。
親を恨んだり、味気なさを感じてはいましたが、悲しかったと考えたことは、今まで一度もありませんでした。
子供時代は争いあっていましたが、今は家族も皆年をとったせいか丸くなり、またそれぞれ長い時間の中で思うこともあったようで、両親は仲睦まじくなり、家庭の中から争いは消えました。
わたし自身も、受けた傷について、それなりに向き合ってきたつもりでした。
でも、たしかに、私はとても悲しかったんだなぁ、と、大きな発見のようでもありました。
子供の頃、「希薄」という言葉を知って、それが気に入ってよく自分の中で使っていました。わたし自身を表すのにぴったりだと思って、その発見が嬉しかった、という気持ちを憶えています。
「わたしという存在がどんどん希薄になって、もうすぐ消えてしまうんじゃないか」と思っていました。「泡になって、消える」というイメージもありました。
夜眠る前に、いつも神様にお願いしていました。
「わたしは、いただいた命をお返しします。この命を他の誰かのために使ってください。」
そんな子供いるのかなぁ・・・というような話ですが、そんな子供でした。
今だから言えることですが、魂の危機だったのかもしれません。
毎夜毎夜、そうお願いをして、朝目が覚めると、まだ生きているのかと、なんとも言えない気持ちになりました。
そんなことを飽きるほど繰り返していて、ある日、思ったのです。
どうしてこんなに生きることを拒否しているのにわたしはいつまでも生きているんだろう、わたしは生きているんじゃないんだ、生かされているんだ・・・と。
思えば、その気づきが、一番はじめの大きな気づきだったのかもしれません。
不思議なことに、それからのことが記憶にないのです。
おそらく、そう気づいたことで、魂の危機から脱し、現実の世界にのめりこんでいったのだと思われます(-_-;)
「悲しかったね」という、チャイルドの言葉は、子供時代のわたしの大きな闇を根こそぎ掘り起こしました。
そうだねぇ、悲しかったんだねぇ。と繰り返し思うごとに、心の中があたたかくなっていくのがわかります。
チャイルドの顔は、血の跡が消え、すっかり可愛くなりました。
ありがとうね。