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ファブール 【花の恵みに寄り添うくらし】 バッチフラワーレメディ 

人の持つ孤独感

『悲しみの乗り越え方』著 高木慶子 という本を読んだこともあって、悲しみについて考えています。

またそういう時に合わせるかのように、悲しいと思うようなことが起こるんですね。

そうしてまた合わせるかのように、いつも賑やかな子供たちが不在、というわけで、一人でしんみり「悲しみ」に向き合っています。

 

 

悲しみの乗り越え方 (角川oneテーマ21)

悲しみの乗り越え方 (角川oneテーマ21)

 

 

グリーフケアに長年携わっている著書によって書かれた『悲しみの乗り越え方』

人生において避けることのできない数々の悲しみの乗り越え方を、多くの経験から実例をあげて紹介しています。そして、多くの悲しみに寄り添ってきた著者だからこその言葉は、ズッシリきました。

『人間がふだんの人間関係でわかりあえることなど、もともと本当に限られている。
人間というのは、本当に本当に孤独なものだと思うのです。
それは、私たちは謙虚でなくてはいけないということでもあります。
親子であっても、夫婦であっても、喜び、悲しみ、苦しみについて、「ああ、わかります」なんていう相槌を軽々しく打ってはならない。
本当に悲しんでいる方に寄り添うときは、言葉でもなく、ただ、時間と場所をともにする。
人間というのは、お互いが、そういう限界のある存在だからです。』

 

本の中に登場する人達は、皆どうしようもない悲しみの中で枯れた泉のようです。
でも、その悲しみを受け入れることによって、その人の持つ豊かさや愛やユーモアが内側からあふれ出して、彼らを満たしていく、、、その様子がとても美しく、不思議とも思える人の強さと生命のすばらしさを感じました。

 

著者の、「人間と言うのは、本当に本当に孤独」という言葉は印象的でした。

同時に、あぁ、本当にそのとおりなのだと、感じ入っています。

 

孤独・・・Wikipediaからの一部引用ですが、

【孤独】

これは何も深山幽谷にたった一人でいる場合だけではなく、大勢の人々の中にいてなお、自分がたった一人であり、誰からも受け容れられない・理解されていないと感じているならば、それは孤独である。この主観的な状況においては、たとえ他人がその人物と交流があると思っていても、当人がそれを感じ得なければ、孤独といえる。

文学的には、「寂寥」という言い方をすることがある。哲学者の三木清が、『哲学ノート』の中の箴言で「孤独は山にはなく、むしろ町にある」という趣旨のことを言っているのはまさにそのことを指していったもの。

 

孤独には、それに近しい・もしくは含まれる概念が多数存在する。

  • 他人から強いられた場合には「隔離」
  • 社会的に周囲から避けられているのであれば「疎外」
  • 単に一人になっているのであれば「孤立」

という言い方もする。一人でいて、それがただ寂しい(他人との交流を求めているのに、その欲求が満たされない状態)という場合もある。英語では、この単なる人恋しくて寂しいという場合は、loneliness として、solitude とは区別される。

他には

  • 他を寄せ付けず気高い様子は「孤高」

があるが、こちらは当人の主観はどうあれ、その優れた性質にも拠り他が近づき難い状況を指す。単に珍奇だとか不快とかで近づき難い存在を指して孤高とは呼ばず、他の追従を許さない優れた性質を表す場合に使われる。用法としては「孤高の天才」など。

 

また、前記事で紹介したOshoのメッセージも人の孤独について書かれてあります。

 

弱さの向こう側 - Faveur

 

 

孤独が悲しみを一層深くし、悲しみを感じることが人を孤独にさせる・・・

そして人の持つ孤独感は、「生」や「死」とも密接に関わっています。

わたしたちが孤独や悲しみとの上手な付き合い方を模索していくことは、生きて行くうえでとても大切なことのように感じました。

 

弱さの向こう側

 

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自分に正直に、自分らしく生きるということは、時にとても辛いことのように感じられます。

自分が今何を感じたのか、自分は今相手から何を受け取ったのか、それらを「そのまま」認めることが、とても難しく感じられるのです。

 

その感情がとても辛いものであったり、事実を認めたくなかったり、知らないうちに期待していたその「期待」を裏切られたことにショックと深い悲しみを感じていたり、自分にとって大切な人であればあるほどその言葉に揺さぶられたり・・・。

 

自分にとって都合の悪いことは隠しておきたい、それが人の性なのでしょうか。

 

わたしも含めて、わたしたちは皆、自分の弱さ、小ささ、未熟さ、幼稚さ、そういうものから逃げながら、ごまかしながら生きているような気がします。

でもその先に、いったい何があるのでしょうか。

 

自分の「思い」から、逃げ出してしまいたい・・・そう思いながらも、それでは今までと何も変わらないのだと、思い至ります。

 

悲しみや、もどかしさ、苦しさ、不甲斐なさ、そういうものの中にじっと身を横たえること。

それは、人によっては不快感のなにものでもなく、また恐れを伴うものでもあります。

それでも、その恐れの先から見えてくるもの、自分の弱さの向こう側を、見てみたい・・・そんなふうに思いました。

 

偶然読んだOsho Japanの記事がとても今日の気持ちにシンクロしていたので、ご紹介します。

 

OSHO:今週の瞑想 [悲しみに瞑想する]

 

 悲しみは、あなたをとても豊かにする経験になり得る。あなたはそれに取り組まなくてはならない。自分の悲しみから逃避するのは簡単だ——そして普通、あらゆる関係が逃避だ。人は、ただ悲しみを避けつづける。が、それはいつも根底にある——流れは続いているのだ。関係のなかですら、それは何度も爆発する。そうなると、人は責任を相手に転嫁しようとしがちだが、それは的外れだ。それはあなたの淋しさ、あなた自身の悲しみだ。あなたはまだそれと決着をつけていない。だから、それは何度も何度も爆発する。

 あなたは仕事に逃げ込むこともできる。別の何か、関係や、社会や、いろいろなこと、旅行などに没頭することで逃げることもできるが、そんなやり方では消えはしない。というのも、それはあなたの存在の一部だからだ。

 人はみな、ひとりで生まれる——この世に、ひとりで。両親を通って、それでもひとりでやって来る。そして、人はみな、ひとりで死ぬ。再びひとりで、この世から去って行く。このふたつの孤独のあいだで、私たちは自分を騙し、欺きつづける。勇気を持ってこの孤独の中に入って行くがいい。初めはどんなにつらく困難に思えようとも、それはとても大きな報いをもたらす。一度あなたが悲しみと決着をつけたら、一度あなたがそれを楽しみ始めたら、一度あなたがそれを悲しみとしてではなく沈黙と感じ始めたら、一度あなたがそれを逃避するすべはないと理解したら、あなたはくつろぐ。

 それに関しては何もできないのだから、それを楽しんだらどうかね? その中に深く入り込み、それを味わい、それが何であるかを見たらどうかね? なぜその必要もないのに恐れる?もしそれはそこにあり続け、偶然ではなく実在する事実だとしたら、それを認めたらどうかね? その中に入り、それが何なのか見たらどうかね?

 悲しく感じたらいつでも、静かに座り、悲しみがやって来るのを許すがいい。それから逃げようとしてはいけない。できるかぎり悲しくなりなさい。それを避けてはいけない——それをひとつ、覚えておくことだ。泣き叫び、嘆き悲しみ......それをすっかり味わいつくすがいい。死ぬほど泣くがいい......大地にくずれ落ち......転げまわる——そして、それが自然に消えていくに任せる。それを無理やり消そうとしてはいけない。それは消える。というのも、誰も永遠に同じムードではいられないからだ。

 それが去って行ったら、まるで重力がすべて消え、無重力で飛ぶことができるかのように、あなたの重荷が降りる、重荷がすっかり降りる。そのときこそ、自分自身のなかに入る瞬間だ。まず悲しみをもたらしなさい。普通の傾向としては、それを許さず、なんらかの方法や手段を見つけて、自分の目を他にそらそうとしがちだ——レストランに行ったり、プールに泳ぎに行ったり、友人に会ったり、本を読むか映画を観に行ったり、ギターを弾いたり——とにかく時間をつぶし、注意がどこかほかへ向くように、何かをする。

 これを覚えておくべきだ——悲しみを感じたら、機会を逃してはいけない。扉を閉めて座り、世界中がまさに地獄であるかのように、できるかぎり悲しみを感じるがいい。そのなかに深く入って行くがいい......そのなかに沈み込むがいい。ありとあらゆる悲しい考えがあなたのなかに浸透するのを、すべての悲しい感情があなたをかき回すのを許すがいい。そして泣き叫び、嘆き悲しみ、言いたいことを言いなさい——大きな声で言いなさい。なにも心配することはない。

 だから、まず最初に、2、3日悲しみを生きてみるがいい。そして、その悲しみの勢いが過ぎ去るとき、あなたはとても穏やかで安らぎを感じる——まるで嵐のあとのように。その時こそ静かに座り、ひとりでにやって来る沈黙を楽しむがいい。それは、あなたがもたらしたのではない。あなたは悲しみをもたらしていた。悲しみが消えると、そのあとにつづいて、すぐに沈黙が定まる。

 その沈黙を聞くがいい。目を閉じなさい。それを感じなさい......まさにその手触りを感じなさい......その香りを。

そして、もしあなたが幸福に感じたら、歌い、踊るがいい。

 

天使のようなインナーチャイルド③

少し前から書いていた、私のインナーチャイルドですが、

 

 

天使のようなインナーチャイルド - Faveur

 

 

天使のようなインナーチャイルド② - Faveur

 

ようやく、この子が笑顔になりました。

車の運転中、

「そういえばインナーチャイルドは現実に問題を起こすけれども、癒やされると反対に問題解決にとても力になってくれるんだよなぁ」

という記憶?が頭をかすめた瞬間、笑顔のチャイルドがわたしの前にあらわれて、消えました。

瞬間の出来事でしたが、そのときたまたま車の中でかかっていた曲が、まるでその部分だけがクローズアップされるように大音量で耳に入ってきました。

 

以下、歌詞の一部ですが・・・(笑)

 

もう涙を流しても(どんな辛くても)

明日は キミを笑顔に

変えてみせるから

二人の心は一つだから

キミは弱くなんか(もう弱くなんか無いさ)ないさ

(so 何度だって come on let's go 立ち上がれ fight back)

何度も立ち上がれ Fight Back

信じてこう Tomorrow....

 

 

Tomorrow feat.hiroko from mihimaru GT

Tomorrow feat.hiroko from mihimaru GT

  • NERDHEAD
  • J-Pop
  • ¥250

 

娘ちゃんのCDだったんですが…

なんというか、チャイルドからのメッセージのようにも感じて、とても嬉しかったです。

実は、過去のことですが、なかなか立ち直れなかった傷がありまして、その傷がひょんなことから開くたびに、落ち込んでしまうということがありました。

自分でも叱咤激励しつつ、でも上手くいかない。そんな自分を持て余してしまう時があり、ちょうどその時、そんな気分だったのです。

なんでもかんでもメッセージ?と捉えるのは、私はあまり好きじゃないんですが、このときは、素直にそう思えて、素直に、嬉しかったです。

涙がちょこっと出ました(笑)

チャイルドは、こんな粋なメッセージを残して、、、

気が付いたら私の傍にはもういませんでした。

正確には、わたしの中に統合されたのでしょうね。

今度は私の力となってくれるのかな?

 

なにはともあれ、良かった♡

満たされてあふれ出すほどに

OSHO : まず、自分を楽しみ、 自分を愛し始めなさい。

誰もあなたのところに来なくても、 そんなことはどうでもよくなるほどに、

自分を慈しみ、本当に幸福になりなさい。

あなたが満たされてあふれ出すほどに。

そうした後、人との関係に入りなさい。


OSHO Japanese | Facebook

 

 

毎日、毎日、同じことの繰り返しのようですが、数年前の自分と比べてみると、あきらかに今の方が「自分を生きている」と思います。

同様に、1年前の自分とも違う。

数か月前とも、数日前とも、やはり、違う。

 

日々繰り返しのようでいて、わたしたちは変化しているのですね。

それは、時間の流れのように、季節の移ろいのように、あまりに自然なことで、意識されることは少ないのかもしれませんが、生きているということと、変化するということは、つながりあっているんだな、と思います。

 

どんなふうに、変化していくのか。

 

それは人それぞれで違うのでしょうが・・・。

 

OSHOの、「満たされてあふれ出すほどに、幸せになりなさい。」というメッセージ。

私からあふれ出した幸せは、周りに拡散していく、ということでもありますね。

一人が幸せになることで、周りの誰かも幸せを感じることができる。

きっとそんな変化が、自然に、何気なく、気付かないうちに、私たちの周りでも起こっているのかもしれませんね。

 

天使のようなインナーチャイルド②

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先日書いた、インナーチャイルドが今日はじめて喋りました。

 


天使のようなインナーチャイルド - Faveur

 

お風呂に入りながら、ふとチャイルドに思いを馳せた時、突然、

「悲しかったね」と話しかけてきたのです。

 

「あぁ、、、そうだね。悲しかったね。」驚きながらも、そう答えた瞬間、

目の前に、子供の頃住んでいた家のリビングが広がりました。

誰もいません。ただ、ガランとした空虚な感じが辺り一面広がっていました。

 

私の実家は商売をやっていて、いつも家の中はガランとしてうすら寒くて、複雑な家庭環境もあって争いが絶えませんでした。

誰かの怒鳴り声がいつも響いているような家でした。

 

そんな風景と空気感が、チャイルドの一言で、蘇ってきました。

 

「あ~そうだね。悲しかったんだよね」

もう一度、しみじみそう思いました。

親を恨んだり、味気なさを感じてはいましたが、悲しかったと考えたことは、今まで一度もありませんでした。

子供時代は争いあっていましたが、今は家族も皆年をとったせいか丸くなり、またそれぞれ長い時間の中で思うこともあったようで、両親は仲睦まじくなり、家庭の中から争いは消えました。

わたし自身も、受けた傷について、それなりに向き合ってきたつもりでした。

でも、たしかに、私はとても悲しかったんだなぁ、と、大きな発見のようでもありました。

 

子供の頃、「希薄」という言葉を知って、それが気に入ってよく自分の中で使っていました。わたし自身を表すのにぴったりだと思って、その発見が嬉しかった、という気持ちを憶えています。

「わたしという存在がどんどん希薄になって、もうすぐ消えてしまうんじゃないか」と思っていました。「泡になって、消える」というイメージもありました。

夜眠る前に、いつも神様にお願いしていました。

「わたしは、いただいた命をお返しします。この命を他の誰かのために使ってください。」

そんな子供いるのかなぁ・・・というような話ですが、そんな子供でした。

 

今だから言えることですが、魂の危機だったのかもしれません。

毎夜毎夜、そうお願いをして、朝目が覚めると、まだ生きているのかと、なんとも言えない気持ちになりました。

そんなことを飽きるほど繰り返していて、ある日、思ったのです。

どうしてこんなに生きることを拒否しているのにわたしはいつまでも生きているんだろう、わたしは生きているんじゃないんだ、生かされているんだ・・・と。

 

思えば、その気づきが、一番はじめの大きな気づきだったのかもしれません。

不思議なことに、それからのことが記憶にないのです。

おそらく、そう気づいたことで、魂の危機から脱し、現実の世界にのめりこんでいったのだと思われます(-_-;)

 

「悲しかったね」という、チャイルドの言葉は、子供時代のわたしの大きな闇を根こそぎ掘り起こしました。

そうだねぇ、悲しかったんだねぇ。と繰り返し思うごとに、心の中があたたかくなっていくのがわかります。

チャイルドの顔は、血の跡が消え、すっかり可愛くなりました。

 

ありがとうね。

 

 

 

眠る前のひと時

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夜、子供が寝静まった後、ひとりであたたかい紅茶を飲みます。

今日一日のことや、楽しかったこと、気がかりなこと、それから時々遭遇する、少し不思議な小さな出来事を、とめどなく好きなように考えたりして、最後はあたたかい気持ちで、いろんな存在に感謝できることを、とても幸せに思います。

子供たち、両親、別れた夫、友達・・・

たくさんの愛をありがとう。

ほんとうは、顔を見て、ちゃんと目を見て伝えたいけれど。

最近になってようやく、目に見える存在だけでなく、目に見えない存在に対しても、認め、感謝できるようになりました。

目に見える形では、なかなか感じられなかった愛というものが、目に見えない形であればそこに溢れるようにあることが、本当に今更感、満載ですが、わかったのです。

世界は、見えるものが全てではないのだと、日々、実感しています。

明日は、大切な友人に久しぶりに会うので、少しドキドキ、わくわく。

嬉しい時間をありがとう。

 

今夜は眠れるかしら?

親の役割

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私も、未熟ながらひとりの親として、悩み、戸惑いが多くあります。

自分のインナーチャイルドを癒やしながら、自分自身がいかに愛に飢えた子ども時代を送っていたのか、ということ。そしてその経験(思いの擦り込み)が、結婚の失敗にも繋がっていたことなどを自分自身が認めてからは、このような、本当の愛を知らない自分が子供を育てて良いのだろうか、と思い悩んだこともありました。

『汝自身を癒やせ』の中でバッチ博士は、「親は、子供自身が、将来、親としての役目を果たすために、できるだけ適した人間になるように育てる義務がある」と言っています。

親としての役割を果たすために適した人格とは?

考えれば考えるほど、難しい問いかけですね。

でも、案外、答えはシンプルなのかもしれません。

 

 

以下に、バッチ博士の著書『汝自身を癒やせ』から、親の役割についての記述を一部抜粋してご紹介します。

 

親の役割は、神聖な奉仕ですから、神に命じられる他のどんな義務を行う場合とも同等に、いやたぶんそれ以上に尊ばれなければなりません。

これは犠牲的行為ですから、子供にどんな見返りも求めてはならないことを肝に銘じていなければなりません。

その魂が自分の若い人格の面倒をみるようになるまで、優しい愛と保護と導きを与えること、ただ与えることだけが、目的のすべてです。

 

独立心と、個性と、自由は、最初から教えなければなりません。

そして子供が、人生のできるだけ早い段階から、自分で考えて行動するように励まさなければなりません。

親としての管理や口出しは、子供の自己管理能力が発達するにつれて、すこしずつ減らすべきです。そしてもっと後には、子供に対する束縛や、親の義務に関する誤った考えによって、子供の魂の命令を邪魔してはなりません。

 

親であることは、一人からもう一人へと引き継がれる人生の役割です。

本質的に、ある短期間、一時的に導きと保護を与えることですから、その期間が終わったら、その努力を止めて、注意を向ける対象であった子供が一人で自由に進んでゆけるように手放します。

憶えていてほしいのですが、私たちが一時的に保護者となる子供は、私たち自身よりもずっと年長の大きな魂かもしれず、霊的には私たちより優れた存在かもしれません。ですから、管理や保護は、若い人格が必要とするものに限らなければなりません。

 

親であることは、聖なる義務であり、一時的な性格を持ったもので、世代から世代へと引き継がれます。

奉仕以外の何ものでもなく、若い人からどんな見返りも求めません。

若者たちは自由を与えられて、自分自身のやり方で成長し、何年か後には、同じ役割を果たすためにできるだけ適した人間にならなければならないからです。

このように、子供はどんな束縛も、どんな義務も、どんな干渉も親から受けてはなりませんが、親という役割は、かつて自分の父と母に与えられ、次には自分が、それと同じ役割を別に人のために果たさなければならない義務であることを知らなければなりません。

                 ~『汝自身を癒やせ』より~